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--------------------資料編---------------------------

-----------Giro d'Italia - List of Races----------------

http://www.racingsportscars.com/track/archive/Giro%20d'Italia.html

----------Wik Giro d'Italia automobilistico-------------

https://en.wikipedia.org/wiki/Giro_d%27Italia_automobilistico

--------------www.ewrc-results.com----------------------

             5. Giro d'Italia 1977

https://www.ewrc-results.com/final/11583-giro-ditalia-1977/

--------History of Touring Car Racing 1952-1993 ----------------

    Campionato Italiano di Turismo Gruppo 5 1976 index

http://touringcarracing.net/Pages/1976%20CI%20di%20Turismo%20G5.html

------------1976 4. Giro d’Italia------------------------------

4. Giro d’Italia Automobilistico
http://touringcarracing.net/Races/1976%20Giro.html

After two burnt cars and no results, this was Lancia’s last possibility to save a budget for 1977. 480 HP, a bit more ground clearance - it should be enough; and it was.
 The first heat, Cesana-Sestriere, was already a Lancia victory, with Pinto fastest - though Facetti was most careful and finished 9th. But Facetti recovered, won the next two heats (Casale Monferrato and Monza-Junior) and stayed ahead

all four days.

------------1980 4. Giro d’Italia------------------------------

8. Giro d’Italia Automobilistico
http://touringcarracing.net/Races/1980%20Giro.html

The traditional Italian race this time visited seven tracks, and had 14 special stages. Lancia had brought three cars in the livery of their new sponsor Martini; two of them were the normal 1.4 Turbo cars, the other was was a 2-litre

compressor car which was driven by Alboreto, Bettega and Bernacchini.
 At first, there was another Lancia in the lead - the 24-valve Stratos of Tabaton, but the Martini cars were close behind. The first circuit racewas won by Moretti in his Porsche 935, but he fell back at the special stages in retired in

the end.
Lancia had a 1-2-3 lead now, but it was not to be: Tabaton retired with head gasket failure.


---------株式会社コレツィオーネ COLLEZIONE Co.,Ltd ---------------------------------

Vol.030 アバルトのはなし
2015年9月25日

http://www.collezione-garage.com/?p=2479

丁度030という話数に達したので、どうにもこの数字をみると思い出すアバルトのことを書きたい。
あ、正統派のアバルトマニアの方が読んだら眉をひそめそうなトピックであることは最初に断っておきたい。
極めてニッチな話である。

FIAT ABARTH SE030。
お詳しい方ならすぐにわかる、後のLANCIA BETA MONTECARLOのプロトタイプ。
そして10年近くの時を経てLANCIA RALLY にまで繋がるプロトティーポ(ほんとはプロトーティポと発音)の祖先といった存在だ。

表紙の写真にもあるように、スポーツというかレース全盛、石油ショック前夜には実に多くのすばらしいイタ車が登場している。(先頭を走るのはもう一台の有名プロト FIAT ABARTH X1/9 PROTOTIPO)

SE031ちなみに030の次031もあり、こちらは後にWRCで活躍するFIAT ABARTH 131 RALLYに進化していく。
 前述のLANCIA RALLYが037。そしてLANCIA DELTA S4は038。
おなじみランチア・デルタ・インテグラーレは SE050である。
なんだかサイボーグ009みたいでカッコイイのだ。

当時、旧世代からの脱出を図ろうとしていたFIATが、プロモーションを目的としてこうしたスポーツモデルを積極的に投入していたこの時代は、観る側にとっては非常に魅力的だったことは言うまでもないし、今のイタ車好きの多くはその洗礼を受けているといっ

ても過言ではないだろう。

1974 Abarth Pininfarina 030後の生産車バージョン、ランチア・ベータ・モンテカルロからは想像もできないような無骨で戦闘的なフォルム(しかもそれがピニンファリーナというから驚き)のみならず、その性能もかなりのものだったので、「男の子ゴコロ」を鷲掴みにするには十分なものだったことはご理解いただけると思う。

あまり現在のことと比較するのは、「昔はよかった…。」的な回顧録になっちゃうので避けたいところなのだが、合理的という名の屁理屈をかき集めたような今のデザインに比べて、なんと直情的で魅力的なのかと今更ながらに思ってしまう。

030schelton縁あって当時の監督である故ジョルジョ・ピアンタ氏とお話をすることができたのだが、その時彼の「こんなんで勝つか? というので勝つのが痛快なんだよ!」という憎い笑顔が忘れられずにいられない。
 
だから、クルマに夢を語らせようとするなら、やっぱりパッと見てすごい形にしてほしいと思うばかりだ…。 やっぱり愚痴か?

それではまた近々。

A Prestissimo!!
 
カテゴリー: ニュース   作成者: collezione パーマリンク 


---------------LANCIA MONTECARLO AND SCORPION HOMEPAGE-------------------------------

ベータ・モンテカルロをこよなく愛する個人の方のHPの様だ。
しかし最終更新が2001年となっている。

http://www.ne.jp/asahi/montecarlo-x1/20/history/history-2page.html

アバルト・ピニンファリーナ3500プロトティーポ (SE030)
モンテカルロが発表される前年の74年にトリノ・ショーでコードネームSE030で発表される。
基本ラインはモンテカルロそれだが、大きく張り出したオーバーフェンダーに煙突型の迫力あるエアースクープと独特なフロントフェイスなどが特徴。
エンジンは3.5リッターV6トリプルウエバーIDFで285馬力をミドに縦置きされる。
同年10月ジーロ・デ・イタリアに出場しピアンタ/クリスティーン組によりストラトスにつづき2位に入賞した。


ベータ・モンテカルロ・ターボ
ベータ・モンテカルロのレース活動はGr5のシルエット・フォーミラーで争われ、メイクスタイトルを連覇してきた。
そこで戦われたモンテカルロ・ターボはセンターモノコックだけを利用して前後をチューブラーフレームで新たに作られたもので、後の037に生かされる。
エンジンは横置きのまま搭載され、1.8リッターをベースにターボ規定の2.0リッターに収めるべく1.4リッターにスケールダウンし、16バルブへッドとKKK製ターボチャージャーの組み合わせで370馬力を絞り出し、最終的に405馬力になった。
モンテカルロ・ターボは1979年にシルバーストーン6時間で実戦デビュー。
翌80年からメイクス選手権にフル参戦して、ブランズ・ハッチ6時間で初優勝してからムジェロ6時間優勝、ワトキンスグレン6時間で見事1-2位。
モンッア1000km、バレルンガ6時間で3位、シルバーストン、モスポート、ニュルブルクリンクで4位などで80年のメイクスチャンピオンに輝く。
81年よりマルティニカラーとなりワトキンスグレン6時間で1-2位、ニュルブルクリンクで4位デイトナ24時間で5位になるなどで81年もメイクスタイトルを2連覇した。
選手権戦以外のイベントで79年ジーロ・デ・イタリアに2台のモンテカルロ・ターボが参戦。
黒赤ゼブラカラーでリカルド・パトレーゼとマルク・アレン。アリタリアカラーではジル・ヴィルヌーブとヴァルター・ロールと豪華なメンバー。
見事1-2位でゴールしたのだが、レギュレーションで禁止されているアウトストラーダを使った事で失格となった。
翌80年ではパトレーゼ、アレン組が1位。
アルボレート、ベティガ組が2位と今度こそ見事に1-2位でゴールし前年の屈辱を晴らした。


---------------ジョルジョ・ピアンタ-------------------------------------------------

---------------訃報:元ランチアのジョルジオ・ピアンタが逝去---------------------------
auto sport web

https://www.as-web.jp/

ラリー/WRCニュース記事一覧  > 訃報:元ランチアのジョルジオ・ピアンタが逝去

投稿日: 2014.04.22 00:00

長年ランチアやアルファロメオのテストドライバーを務め、チームマネージャーも担ったジョルジオ・ピアンタ(写真右)が、イタリアのミラノで亡くなった。享年79。
1960年代から90年代にかけて、レーシング界における様々な分野で活躍したピアンタはレースでドライブすることをこよなく愛し、「どんなマシンでだってレースをしてきた。
カートを与えられれば、それでレースにも出たよ」と語ったこともある。

ツーリングカーやプロトタイプで参戦を経験を積んだ後は、フィアットグループに加わり、何十年にもわたって、ラリーカーからトラックまで、テストドライバーとしての役目を担った。

1980年代にはグループBのランチア・デルタS4の開発にも深く携わった。
また1993年にはDTMでアルファロメオのレーシングチームを率いて、ニコラ・ラリーニ、アレッサンドロ・ナニーニをドライバーに、メルセデスを圧倒した。

 

------------イタリア自動車雑貨店-----------------

GIORGIO PIANTA UNA VITA PER LE CORSE

ジョルジオ・ピアンタ、その名を聞けばイタ車好き、そしてモータースポーツファンなら誰もが血湧き肉躍るはずです。
ABARTH、LANCIA、Alfa Romeo……。
イタリアのモータースポーツの歴史に燦然とその名を残すジョルジオ・ピアンタ、今回ご紹介するのはモータースポーツに人生を捧げた一人の男の物語です。

1950年代、レーシングドライバーとしてそのキャリアをスタートさせた彼は、その開発能力の高さを買われABARTHへと加入。
124 ABARTH RALLY、131ABARTHといった名だたる名マシンの開発でキャリアを重ねます。

ABARTHがその開発をLANCIAにシフトした後も037、そしてDELTA S4と次々に名車を生み出したピアンタ。
そして1990年代、ABARTHはその名をALFA CORSEへと変え彼はその最高責任者としてティームを率います。
75での活躍を皮切りに、世界中を席巻した155時代。
真赤なユニフォームに身を包み微笑むピアンタの姿を当時の雑誌で目にする機会が多かったはずです。

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